ちょっと吾朗を全力で擁護してみる。
そんな訳でオレはゲド戦記で『楽しめた』訳なんですが、ご存知の通り現在ネット上で吾朗氏への猛烈なバッシングが巻き起こっていて、それが映画に対する非難ならまだいいんですが、単なる人格攻撃になってまして、しかもそんなサマがブログで言及されて"映画は観ていないが吾朗は最低な奴だ"みたいな事を平気で言う輩が大量にいらっしゃるようなので、後だしジャンケン的ではありますが、ちょっと片っ端から反論してみようかと思います。
id:otokinokiさんdis。
いま「ゲド戦記」に問われているのは、宮崎吾朗がジブリを継ぐに足る正当性があるかという点だ。
だが試写会評を見る限りでは、どうやらそれは失敗したようだ。日本のアニメ文化がいかに継承されていくかという行く末を鑑みてそう思った。
さて次の企画は - ジブリ継承の正当性が問われはじめた? 宮崎吾朗「ゲド戦記」に巻き起こる暗雲
やっぱり現在の吾朗バッシングシーンを語る上でこのエントリーは欠かせませんよね。このエントリーに対する批判は虚馬ダイアリー - フィクションを粗末にするやつなんか大嫌いだ。で語りつくされていると思うので俺は何も言う事がないんですが、皆さんに一つ知っておいて貰いたいのは、id:otokinokiさんのこのエントリーは、表面上、中立的な立ち位置冷静な分析を加えているかのように装われてますが、実際のところ、多分に感情的(→恣意的な、に訂正します)な動機から書かれていると言う事です。
ちょっと下のはてブコメントを見てください。
otokinoki [アニメ], [偽善] 北朝鮮相続キター! 植木屋が劇場アニメを作るってさ!
はてなブックマーク - asahi.com: ジブリの新作は「ゲド戦記」 宮崎駿さんの長男が監督 - 文化・芸能
otokinoki [アニメ], [偽善] 植木屋が劇場アニメを造る時代。日本は豊かだな。
はてなブックマーク - 「ゲド戦記」監督日誌
otokinoki [アニメ], [偽善] まず言い訳言い訳、この世代は言い訳ばかりね!
はてなブックマーク - 「ゲド戦記」監督日誌 - 10maekoujyou
これらは半年前の新聞記事、監督日誌のはてなブックマークページです。なんだか知らないけどやたら怒ってる人がいますが、見ての通り、これらは全てid:otokinokiさんのはてブコメントです。まあ、実際ゲドの監督を息子にさせるというニュースは衝撃的なので、もちろんこんな反応も理解できるんですけど、この人の過激さははてブコメントの中でも際立っていましたね。しかしこんな脊髄反射で頭に血の上った事を言っていた人が、中立的な立場で作品について発言したとは思えません。id:otokinokiさんが『世襲』というものをどう捉えているかは別に俺は興味ないんでどうでもいいんですが、ただ、吾朗バッシングの空気を最初に、それらしい文章で最も効果的なやり方で醸成したこのエントリーが、
ネガティブキャンペーン的目的の元に書かれていたということ
だけは知っておいて欲しいです。
押井守disの件。
痛いニュース(ノ∀`):ゲド戦記の監督が押井守にダメ出し
1 名前:依頼342@静岡makky ◆IgDbIlkkMo 投稿日:2006/07/26(水) 10:18:39 株 ID:OqN7EH080 ?
昨日、ジブリの試写室で
押井守監督の最新作『立喰師列伝』の試写を観ました。
(中略)
押井さんは、私に対して一方的な親近感をもってくれているらしく、
『立喰師列伝』を、ぜひ観てほしいということでした。
私は、押井さんにもうひと花咲かせてほしいと思っています。
だから感想は、一言。
もう一度、同じテーマで、
サービス第一のエンターテインメントに挑戦してほしい、
これだけです。14 名前:愛戦士 投稿日:2006/07/26(水) 10:22:16 ID:Tg0VMUDx0
一言いおう何様のつもりだ
21 名前:番組の途中ですが名無しです 投稿日:2006/07/26(水) 10:23:43 ID:vKb7OiWN0
態度でかいな
新人だよね
これはひどい。何が酷いって、半年も前のエントリーを今更掘り返して吾朗を叩こうというこの根性*1。スレを立てたヤツはただ面白がってるだけだろうけど。っていうかさ。
じゃあお前ら『立喰師列伝』観て面白かったですって言えんのかよ!…と。
『立喰師』を観た俺からすれば、吾朗のコメントはとても理解できるものだ。つーかコメントしずれーよアレ(つまらないって言う感じじゃないんだけど)。少なくとも、このスレで『吾朗最低』とか言っている連中は『立喰師列伝』を観てもいないし、観たとしても『面白い』なんて絶対に思わないね。純粋な作品批評の話ではなく『大先輩に失礼な事を言う吾朗最低』といってる人もいるけど、面白くなかったものをおべんちゃらで面白かったと言えというのか。少なくとも吾朗の『もう一度エンターテインメントをやって欲しい』という感想は真実であるし、それは押井自身も分かってる事だよ。言いにくい事でも、ちゃんと感想を相手に述べる。これほど真摯な作家への向き合い方がほかにあるというのか。俺はむしろこの発言を評価する。あ、あと『自分ができてないクセに』ってのもアウトね。この時点ではみんな伝聞でしか作品を知らないんだから。
『アニメ技術の9割以上は父と高畑(勲)さんが築き上げた』発言の件
原作は父親である駿さんが、30年以上にわたって映画化を考えていた作品。当初は許可が下りなかったが、駿さんの作品を見た作者が4年前、映画化の話を自ら持ち込んできた。 「父の偉大さとアカデミー賞の影響力の大きさを感じた。父は当時、自分の作品(ハウルの動く城)で精いっぱいだったし、ほかの監督候補が恐れをなして逃げたから、仕方なく僕が監督になった」と笑う。 初めて原作に触れた10代のときと今回では「違う部分に感動する自分に気付いた」という。「以前は〝おじさんの説教〟としか思えなかったハイタカの言葉が、今では素直に理解できる。自分が歩んできた人生と重なり合う部分が大きいからじゃないかな」。 初監督、父との比較など周囲は騒がしいが「今のアニメ技術の9割以上は、父と高畑(勲)さんが築き上げたもの。僕はそれを利用するだけ」とさらり。「アニメは今後、技術的に大幅な進歩は望めないかもしれない。でも描くものは無限大。だからアニメに限界はない」と力強く言い切った。 「ゲド戦記」は29日から、TOHOシネマズ岡南(岡山市築港新町1丁目)など、全国の映画館で一斉に公開される。
【2ch】ニュー速クオリティ:今のアニメ技術の9割以上は父と高畑(勲)さんが築き上げた(引用は孫引き)
これは俺もびっくりしたんですが、繰り返し読んでいるとどうにも違和感が沸いてくる。"「(略)ほかの監督候補が恐れをなして逃げたから、仕方なく僕が監督になった」と笑う。"など、他媒体に登場する、控えめな吾朗からはちょっと突出したキャラになっている。仮にもプロに揉まれて映画を一本撮った人間が上のような発言をするとは思えないので、俺はこれは『僕のアニメ技術は…』や『ジブリの技術は…』等の文脈での発言を岡山日日新聞記者が
- 不敵なキャラ作りにした
- 世襲監督とバカにしていた
- アニメのことにあまり詳しくなかった
のどれかのために文意に改変を加えただと睨んでいる。事実、この新聞は『オカニチ映写室』なる映画コーナーで
といきなり事実誤認をかましている。記事のインタビュアーと同一記者であるかは署名記事でないのでわからないが、地方紙の映画欄であるので、同一の可能性は大いにあるだろう。俺は3番だと思う。根拠に乏しくて申し訳ないが、こういったマス報道の杜撰さはよくある話なのは2chねらーはよく知っているだろうし、この記事がそんなに磐石な信憑性を持っていると言い難いことは明らかだ。(よしんばコレが吾朗の真意に沿った記述だったとしても、あれほど偉大な父の足元で育った男の主観を思えば、非難に足るほどの錯誤とも思えない)
8/1追記:コメント欄通りすがり氏によると、月刊サイゾー8月号の押井守・宮崎吾朗対談において押井守が同じ事を吾朗に言っており、それを吾朗が受け売りしたという説もあるようです。俺自身はまだその対談を読んでないのですが、確認次第追記しようと思います。
番外編。レビューとか色々。
Yahoo!ムービー - ゲド戦記
ちょっと話はわき道にそれるけど、ちょっとどうかというレビューも多々観られるので、少し。まあ、作品を観た上でのレビューは存分にやってもらいたいし、俺がどうこう言う問題じゃないんだけど、この辺読んでて思ったのが、みんな『ジブリ』に『宮崎駿』を求めすぎじゃね?
レビューの方たちの批評を見ていたのですが、気づいてない方も多いのでここに書きますが、近年の宮崎アニメは営利主義『金儲け』に走っているのですよ。那須アンダルシアの夏、猫の恩返し、ギブリーズ?だっけ。変な短編映画。未来少年コナンのパチスロが登場、ジャニや素人の声優の起用、映画内容はとにかくお粗末、等がそれを物語っています。
ゲド戦記から近年の宮崎アニメに通じること
とか読んで爆笑してしまった。それ宮崎作品じゃねえええ(笑)!まあ、このレビュアーは極端な例だけども、多かれ少なかれ似たようなもんだと思う。こんな風に思ってたら確かに、(誰がどんな作品を作り上げようと、)『あんまんを食べにきたのにわさび漬けを出された!』とか言い出すわけだな。てか最近そういうことを言うオタクが多くて困る。この人たちには吾朗の込めたメッセージは全く伝わってないんだなろうなあ。ただただ、『ぼくが想像してたものじゃなかった!』事だけが問題なんだろう。だって少なくとも、『映画として成り立ってない』なんていわれるほど酷い映画じゃないんだぜ?まあいいや。これは俺の愚痴。
(彼らが宮崎駿と全く同じものを吾朗に要求しているのは、駿なるものが、他の人間であがなえる程度の交換可能な作家性だと思っているからなんだろうなぁやっぱ。その意味で彼らはやはり『観客』ではなく『消費者』なんだろう。)
追記:放っておくのもなんなので『ゲドダメだよね』論の根拠にされがちなヤフー!レビューを一つずつ丁寧に斬ってやろうかとも思ったのだけど、やめた。あまりに酷すぎて言葉もない。
まとめ
という訳で、昨日今日、はてなでゲド感想を漁ってみたら『映画は観てないけど、アンチエントリーを引用して『クズ人間の造る映画はやはりつまらないのだ』と勝手に溜飲を下げてるはてなダイヤラー&ブックマーカー』が目立ったので書いてみましたよ。学校や職場の友達に『ゲドつまんないらしいから観に行かない方がいいよ』と忠告して回っている友達想いな方々は、以上の事柄を考慮のうえ、思う存分バッシングに励んでください。以上!帰ってよし!
補遺
アンチネガティブキャンペーンばかりやっているのも生産的でないので、俺なりにポジティブなレビューを見つけて載せて行こうかと思います。あ、おれ自身の簡単な感想はこちら(とこちら)に書いてあるんで。
id:renkonnさんによる非常に心のこもったレビュー。
私個人としては、
「荒削りだけれど非常に誠意ある作り方をしている秀作」
だと思っています。原作を2〜3度読み込んでいるので判るのですが、監督はじめ、関係者全員がよくよく原作を噛み砕いている。この作品は「スルメ」のようにしっかり咀嚼しないと、見る側は胃の腑に収める事が出来ない、そんな作品です。
ゲド戦記鑑賞記 その1
ゲド戦記鑑賞記 その2
そう!まさに「荒削り」だけど「誠意がある作り方」の「秀作」なんです。俺は枝葉の部分ばかりに捕われてこういう感想が言えないので、ずばりと言葉にできる人がうらやましいです。
id:yaharaさんの、バッシング状況も含めた分析。
ハヤオ監督は、コミカルなシーンや、スリルあふれるシーンをうまくつなぐ「技」を使って、子供ができるだけ退屈しないように映画を作ってきました。
しかし、吾郎監督は、この「技」を捨ててしまった。
これは大冒険です。ハヤオ監督が「すなおな作り方で良かった」と評した意味は、自分が多用してきた、観客を楽しませる「技」を捨てた吾郎監督の思い切りの良さに対する、すなおな評価だったのでしょう。
「酷評」の大部分は、吾郎監督のこの「大冒険」に原因があります。何しろ、ジブリ映画の重要な要素となる「技」を捨ててしまったのですから、それを楽しみにしていたファンが失望するのは、無理もないでしょう。
なぜ、吾郎監督は、こんな「大冒険」をしたのか。
それは、何よりも、原作が「ゲド戦記」だからでしょう。原作に、コミカルなシーンは一切登場しません。原作のイメージを壊さないためには、カルシファーのようなコミカルなキャラも、パンをおいしそうに口にほうりこむシーンも、豪快な笑いも満面の笑みも、登場させるわけにはいかないのです。強いていえば、二人のおばちゃんに、ジブリの「技」を生かそうとしていますが、それでもきわめて控えめな表現です。
それは、潔い決断でした。結果として、これまでのジブリアニメに比べれば、「地味」な作品になってしまいましたが、原作のイメージを尊重した作品に仕上がっていると思います。
あらかじめそのつもりで見れば、この作品ならではの工夫が楽しめると思います。
Y日記 - ゲド戦記:吾郎監督の大冒険
この記事を書くに当たっていろいろ考えました。この感動はどこからくるのだろうか、と。この作品は長大な原作の真ん中当たり、ごく一部をアレンジして作られているそうなのですが、実際ゲドと今回の敵にあたるクモと呼ばれる魔法使いの過去の因縁はもう少し具体的に描かれた方が解りやすいだろうと思いましたし、ゲドファンにしてみれば少年ゲドのほうが…という意見もあったようです。
だけど全編を通してビリビリと感じ取れたのはその奥底からわき出てくるような熱い熱いエネルギー。
たしかに物語としてはストレートかつ荒削りではあるけれど、だからこそ素直に観ている側にも素直に染みこんでくるのではないでしょうか。
『ゲド戦記』若き指揮者と熟練のオーケストラが紡ぎ出す新たなハーモニー。-よろ川長TOMのオススメ座CINEMA
説明不足な点はある。真の名という設定やら魔法のイメージのわかりにくさ、キャラクターの背景の描写をばっさり切るなど、明らかに不親切。そこら辺をもうちょいうまく提示するべきだと思った。それでも、このなんとも言えず、このぐずぐずと煮え切らなくて、キレやすい、どうしようもなく不安定な存在の主人公によって、宮崎吾朗特有の鬱屈がでているのは、ああ、なんて素直に自分を出すんだろう、と嬉しくなってしまうのだ。
虚馬ダイアリー - 明日知れぬ風
そう。鬱屈に対する素直さが心地よいと思いました。二代目監督が親殺しの話なんて、撮ったら周りにどう言われるかなんて分かりきってるのに、敢えて、全身全霊で観客の前で演じきったところ吾朗監督の"素直さ"の凄いところだと思う。
長大な原作をまとめるのに、父・駿の絵物語「シュナの旅」の枠組を援用するのは微妙な反則技にしろ(笑)、主人公アレンを“親殺し”の王子として設定するなど、屈折してはいるが照れがなく逞しい、息子・吾朗の創作態度を示して好ましいではないか。
屈折してはいるが照れの無い逞しい創作態度(ミルクマン斉藤)
コメント欄より、id:kwkt氏によるレビュー。『ゲド』では単なる『生と死』という命題から一歩進んで、それらへの『態度』が問われているという考察。
僕はもう一歩進んで見えてくるテーマがあるように思いました。設定として挙げられた混乱・不安の渦巻く世界を人はどう生きていくか、その最も根源的な現象としての「生と死」にどう向き合うか、そのときの対照的な二つの「態度」が示されていたように思います。
ひとつは死の不安・生の意味の不安定さから逃れるため魔法の力で「不死」を求める態度。これは「これさえあれば自分は幸せなはず」「これがないから自分は不幸だ」と思ってしまう「(生きる意味の)無限背進*1に怯える実存」「不動の土台を求めるある種の神経質さ」*2・*3と言えましょう。
もうひとつは、いろいろなところで言及されている鷹(タカ)の自主・自立のイメージ。たとえ不安になろうともオタオタせずに、あるがままの自分を環境をそれでも信頼して前へ進む態度が推奨されています。それが「結果的に・事後的に」人に気高さ・賢さ・力強さ・超然さを備えさせる、と。生きて前に進もうと意志することこそが、鷹のように誇り高く、野に咲く花のように凛と、「あなた」のように何ごとにも泰然自若と屹立できる源泉となる、と。そして「悲しさ」「切なさ」「寂しさ」を同居させているその心を何にたとえよう、と。
Kawakita on the Web - 映画『ゲド戦記』鑑賞
今まで『不死を求める敵役』というものにいまいち不可解だったんですが、ああそういうことだったのかと納得しました。
上で紹介したid:renkonnさんによるゲド評その3です。
と、、ここまで考えて一つの法則に気がつきました。
駿監督は、自身が主導権を取る作品の中で「友殺し」をしないのです。
唯一の例外が「天空の城ラピュタ」のロボットで、シータを塔の上に優しく置いた後、砲弾に直撃されて「死んで(壊れて)」しまいます。シータが絶望的に叫びながら最後までロボットの手を取っている様は、「友の死」を見送る表現そのままであり、事実私もラピュタの中で一番悲しく、一番惹き付けられるナンバーワンのシーンだと思っています。
こんな演出が出来るのは誰か。ふと頭をよぎったのが「高畑監督」の名前です。
「ラピュタ」は宮崎駿/高畑勳両巨頭が共に仕事をした最後の作品で、その事実を踏まえると、あの中盤のクライマックスは、「友の死→高畑勳にしか出来ない演出」直後に来る「海賊の息子らのはしゃぎぶり→宮崎駿の個性」だったのだと、初めて気がつきました。(きっとこの様な評論は世に多く出ているのだと思いますが。)
renkonnの日記 - ゲド戦記鑑賞記 その3
その、先日はコメント欄で偉そうに"いいレビューだと思う"とか言ってすいませんでした。コレめちゃくちゃいいレビューですよ!アニメ史上屈指のシーンの分析には脱帽です。『宮崎吾朗は高畑勲の息子』説。確かにゲド、『ホルス』によく似てるんですよね。(…すいません。実はアレ観てないんですが、偶然にも昨日俺は友人に、ゲドを『ゲンドウを刺して逃亡したシンジ君が主役の太陽の王子ホルス』と評しました)
(何かある方は、コメ欄かトラバでお気軽にどうぞ。)
*1:上でお前もやってるやんけーというツッコミ待ち