小野マトペの業務日誌(アニメ制作してない篇)

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『キング・コング』アメリカ人の原風景

ono_matope2006-01-26

こんな映画作る連中と戦争して勝てる訳ないな、と。そんな戦後に白雪姫を観た日本人みたいな事を本気で思ってしまった。昨日テスト明けに日劇PLAZAで『キング・コング』を観てきました。多分、それはこの映画が『ステルス』とは真逆の意味で『アメリカ人の映画』だったこととも関係してるんだろうな。
 
日本人にはこんな映画は100年経っても撮れないよ。
 
2004年が紛れも無く『日本のアニメ映画の年』であり、それらの映画群はすべてどうしようもなく現在の日本そのものだったように、今思えば、『宇宙戦争』『エピソード3』『キング・コング』が制作された2005年は『アメリカの特撮映画の年』で、それらの作品は間違いなく今の『アメリカ』そのものだったと思う。
あの容赦なく生々しい土人たちの恐怖は、自分たちでフロンティアを開拓してきたアメリカ人の、ならではの原風景なんだろう。アメリカ人のみる悪夢を、日本人にも理解させるだけの力のある描写だった。土人に囲まれて殺されかけた時に、マシンガンを振り回して仲間が助けに来た時の、安心感。ビバ文明。
 
この映画、メタ構造を駆使してくる。
 
デナム達が到達した島には、30メートルを越す壁がめぐらせてある。それを最初に見つけた脚本家の『なんのための壁なんだ?』がフックになっているけど、そこでは誰もが、『外部の文明世界から自分達を守るため』のものだと想像し、観客は世界の中心の非文明vs文明、のオリエンタリズム*1溢れる構図を予想する。とってもアメリカン。しかし、土人たちは壁の外側にすんでおり、コングの生贄の儀式を目撃するに至り、『壁』が、島の内側の原始世界から身を守るために機能していたことを知る。その時点で、実は最初から土人たちは文明側であった事が判明し、原住民vsアメリカ人と言う意味での文明、非文明の構図は意味消失し、あれよあれよと言う間に自然vs人間、もしくは自然vs文明という、壮大で本質的な非文明vs文明構図に置き換えられる。
 
言うまでも無く、デナムの目論見が『映画を撮ること』であることも、前後編ともショウで始まることも、構造的リアリティを巧みに補強している。今敏とかが使いまくる手だけども、劇中劇は、観客-(映画)という最も超えがたく強固な構造を、観客-(映画-(劇中劇))と多層化、メタ化することによって"超える"ことができる、超強力な手法であるし、それを各章の導入に使うとなるとなお強力。
 
要するに何が言いたいかというとですな。
 
前半、髑髏島編の最後でデナムたちはついにコングを眠らせる事に成功し、大胆なショットで第二部、ニューヨーク編に転換する。島から帰って来たデナム達は財を成し、ニューヨークの大劇場にコングを運び入れ、ショウが始まる。この惨めに祭り上げられたコングによって、前半の冒険は全て"劇中劇"に落とし込まれる。荒唐無稽なショウ、スクリーンの中の夢のようなファンタジー。一つの映画の中で、観客と映画という不可侵な関係性がふたたび取り結ばれる。
実際、映画監督デナムが巨大なゴリラを演出し、"愛するものを壊さずにはいられない"強欲さでコングを自分のものにしたショウは、PJが髑髏島で観客を引き込んだ『キング・コング』という映画そのものの、鏡写しだ。グロテスクなスペクタクルが、強力なメタ構造を成している。
 
意気消沈しておとなしくしていたコングだが、上演中にフラッシュに驚いて*2暴れだす。客席の人間を踏み潰す。これはとてもショッキング。ショウの観客とショウという、本来破られるはずの無い契約が破られる。さらに、コングがニューヨークの大通りに飛び出して街がパニックになるシーン、今まで効果的に使われていた音楽が突然途切れ、カメラワークが計算されなくなる。ここだけドキュメンタリータッチ。コングはこの時、『キング・コング』の『映画と観客』という契約を破棄し、スクリーンという越えられない壁を突き破る。
 
それがPJがこの映画に仕掛けたメタ構造のトリックだと思う。
 
俺はホラーでもお笑いでも、映画に限らず作品が観客の心に届くためには、観客の暗黙の了解を突き崩すことが必要だと考えているのだけど、この映画はそれが強烈に作用しているんだと思う。

*1:実際には単純にそれとして片付けられないけど。

*2:リアルだ