小野マトペの業務日誌(アニメ制作してない篇)

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痕跡展、徒然。

布団に入ってから、何故PC画面やチラシで写真を見たほうが面白かったのか考えた。(俺自身の不十分な鑑賞体験から派生した屁理屈なので、勿論一辺の普遍性も志向しない上、全く的外れであるという気がすでにしているという事を断った上でのたまいます。)
実際に痕跡展のホンモノの作品群を目の前にしてみると、『案外普通だな…』と内心がっかりしていたんだけど、それは、美術作品というのは、ホンモノにおいては『痕跡である』と言う事は作品として『当たり前』であり、何ら特別な事ではないからではないか。その『行為の痕跡が実存する説得力』の点で他の美術展に置かれるホンモノも等価であり、むしろその点のみに魅力を依拠しているために、痕跡展の作品群は物足りなくもある。
しかし一度印刷物やデジタルデータに複製され(、嘘レベルが一つ上がっ)た時、それ以外の作品は魅力(と言い換えていいものか。少なくとも、実在する説得力)を大きく損ねるのに対して、イヴ・クラインの作品は殆ど魅力を減じない上、もしかすると増しさえするように思える。何がそうさせてるのかは分からないが、『インクの噴出の制御』や『電子信号の制御』等に基づく複製技術が複製するのは既に情報であり決して身体性は伝達されずに、情報という感覚が肥大する中(戦後だし)残された、『俺が行為した!』事実そのものを、痕跡を伝えない複製メディアで鑑賞する態度と言うのは、もしや正しいのではあるまいか。
以上。イヴ・クラインを写真で見たときの興奮と現実との落差の屁理屈による合理化おわり。
…あれ、結局Orangeの言っていた事に帰結してしまった。畜生。蛇足だけど、そうなると同じ戦後のアンディ・ウォーホルと同じことを正反対の手法で主張してたことになるのか。ちょうど押井と宮崎の様に(蛇足)。