小野マトペの業務日誌(アニメ制作してない篇)

はてなダイアリーの閉鎖をうけ、旧ブログ http://d.hatena.ne.jp/ono_matope/ から移行しました。続きは→ http://matope.hatenablog.com/

『ホテル・ルワンダ』って何の役に立つの?

というか、既に騒ぎは収束に向かっているようなので完全に乗り遅れているんだけど、敢えて今。今日、『ホテル・ルワンダ』を観てきました。作画オタクの癖にドラえもんの映画でなくこっちをチョイスしたのは理由があって。ちょっとその経緯を解説。
発端は、パンフに寄稿した文章を非難された映画評論家町山氏がそれに反論した『 『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!  この人を見よ!』。このエントリをめぐって、大論争が発生。b:t:ホテル・ルワンダ←是非ここで議論を追いかけて欲しいんだけど、ここ数日この論争を観てきて、果たしてどんな映画なのかと期待して今日俺は映画を観てきました。そして、タイトルのような感想を持った訳なんですが…。
ところで俺は、肝心の映画を観ないまま、その映画を巡る論争を眺めていたので、何となくどんな映画なのかイメージが出来ていました。どんなイメージかというと、

私たちは誰でも、人を差別して迫害する、虐殺の種を秘めているんだということを自覚し、ルワンダみたいな状況になった時、ポールさんのように行動できる人間にならなければ。

というメッセージを孕んだ映画なのだろう、というイメージ。これはとても大切な事だ。『誰もが状況によっては隣人さえも殺してしまうかもしれない』、そう考えるのは大切な事。『自分も状況によっては…』というリアリティを観客に持たせる映画なんだと思っていました。その後の議論もそれを前提にして進んでますし。

でも、実際に映画を観た時の俺の感想は、『なんだ、思ってたよりハリウッド映画だな…』だった。少なくとも、町山氏が提示したメッセージのうち、前半部分『あなたも虐殺を行うかもしれない』は、この映画で描かれていたか甚だ疑問です。ていうかブクマコメントで町山批判派を叩いてる人たちは本当にこの映画を観たんだろうか?観たんですか。ならいいんですが。
だってこの映画の中では、ポールさんは最初から最後までいい人だし、虐殺を行ってるのはショッカーの戦闘員みたいにシンボル化された民兵だし、それを率いてるヤツは最初から最後まで、笑っちゃうほど深みの無い『悪者』だし、町山さんパンフで

ルワンダ虐殺は現実なので、ハリウッド映画のようにわかりやすい悪役はいない。戦って敵をやっつければOKというわけではない。

って言ってるけど、(ハリウッド映画だから)わかりやすい悪役いたじゃん。戦って敵をやっつければOKだったじゃん(フツ族民兵のボスはその後逮捕され終身刑をかせられた事がエンドロールで示されている)。特に最後、民兵に襲われた難民トラックが、政府軍の支援で危機一髪安全地帯に逃げ込めたところや、ポール氏の妻が民兵にナタを突きつけられるところなんか、まるでアクション映画みたいでドキドキしましたよ。あと、ポール氏の家族が国外脱出する時、ポール氏がトラックから飛び降りて『自分はホテルに残る』と言い放ち、一時生き別れになってしまうシーン、泣けたね。ていうか泣きました。何年か前の、豚のお母さんがトラックで運ばれてしまう豚骨ラーメンのCMも泣けたけどね*1
ちょっと脱線してしまったけども、結局俺はこの映画を観て、アフリカで起きている復讐の連鎖や社会的状況に対して想いを巡らせ、少しだけ理解を深める事ができても、『何故虐殺が起きたのか』『なぜ彼らは同じ国民を殺すに至ったのか』なんてことは、全く分からなかった。描かれていなかったとすら思う。俺はそれが観たくて行ったのに!*2確かに、簡単な歴史背景は、序盤で西洋人ジャーナリストに対して説明がなされる。「長い間のツチ族支配にフツ族の不満が募っていた」。はい。「悲しい話です」。だけど、この映画で実際に虐殺を行うのは、最初から狂気に駆られた『愚かな』民兵だ。
 
この映画では、民兵とポールさん以外のフツ族は描かれない*3。彼らは一体どこへ行ったの?一人残らず全員民兵になってしまったんだろうか。少なくとも、ショッカー戦闘員こと狂信的なフツ族民兵は、完全に『切り離された存在』として描かれている。普通のフツ族や(それがいたとして)観客とまるで接点の無い、切り離された、『遠い国の『テロリスト』』だ。ツチ族を100万人殺したフツ族民兵と、1200人救ったフツ人。一体何が違ったのか。(恐らく、家族にツチ族がいたか、だろうが、それでは我々のロールモデルにならない。ちなみに、ツチ族と仲のよいフツ族民兵に加わっている事が描かれている。)仮面ライダーを観て、何故戦闘員が戦闘員になったのかを描かなくては、悪を描く事にはならない。ダース・ヴェイダーが、何故暗黒面に堕ちたのかを伝えなければ、人生の警鐘にはならない。この映画では、戦闘員が悪として、ダース・ヴェイダーが悪として、ポール・ルセサバギナさんはじめ平和維持軍将校がヒーローとして描かれている。これでは、彼らの行動を理解しようが無い。意味が無い。結局自分はヒーローで他人は理解不能な悪人、二元論じゃないかこんなの。
 
町山氏の言う怒りの相克、隣人愛に関してなら、映画『息子のまなざし [DVD]』の方がなんぼもましです。息子を殺した少年を偶然預かる事になった保護監察官の父親が、様々な感情を乗り越えて、少年に『父さん』と呼ばれるまでを描いたこの映画は、泣けこそしませんが、考えさせられる内容です。
 
とはいうものの、これもエンタテイメントとして面白い映画ではあったと思います。冒頭ラジオ局の『隣人を疑え』は、そのまんま『デビルマン』と同じで戦慄しましたし、ポール氏自身、死体の山という『証拠』こそ遭遇したものの、虐殺自体は一件もその眼で見ておらず、ビデオ画面を通してしか観ていないという仕組みも面白い。物語のフィクションレベルを操作して、リアリティを与えてると思う。何より、知恵を駆使してホテルと難民を守るポール氏の行動は痛快。
 
最後に、映画というよりも町山氏のエントリに対する俺の個人的な呟きですが、町山氏は件のブロガーを指して『こんなバカが虐殺を起こすんだ!』と言いますが、何らかの事情で統治機関が無効化し、情報が分断されパニックに陥った状況で、そもそも個人の良心に期待する事そのものがナンセンスでは。というか、俺は『自分はこの人より良心的だから(思慮深いから)、極限状態でも人を殺したりなんかしない』などと暢気にいう人間の方が信用できない。それは、件の女性ブロガーも、町山氏も俺も等しく。『この人、いかにも虐殺をしそうだ!』なんて評価付けは意味が無い。極限状態では。
その様な状況で必要なのは良心よりも、『正確な情報/報道』じゃないんでしょうか。情報が断たれれば人間は不安に駆られ、正常な判断が出来なくなります。そのような状態での行動は普段の人間の想像力の及ばないところです。ルワンダ虐殺においても、ラジオ放送局RTLMの存在が大きなポイントでした。日本でも、一部新聞が『朝鮮人が火を放っている』などと書かなければ、虐殺は防げたと思っています*4。ですから、そのような事態を防ぐために必要な事は、極限状態においても情報を伝えられる頑強な通信インフラと、報道の正確性を我々が見守るという事かと思います。パニック型の虐殺に沿って考えるならば。(両者の事例を等しいと認識した上で共通の解決策を考えるのならば。)思想や、良心の多寡は関係ありません。
 
……もう終わった話なのに長々と空気を読まないエントリでかなり滑ってますが。

*1:言い過ぎました。でも、『演出』に支えられた涙には意味が無いとも思います

*2:それは自分で考えろって事?

*3:ああ、ホテルの客に一人いたけど

*4:別に特定報道機関を非難している訳ではありません