小野マトペの業務日誌(アニメ制作してない篇)

はてなダイアリーの閉鎖をうけ、旧ブログ http://d.hatena.ne.jp/ono_matope/ から移行しました。続きは→ http://matope.hatenablog.com/

俺が『ミトン』が恐い理由

(補:色々と理屈や日本語に怪しいところがありますが、眠いので起きたら手直しするかも)
先日の『ミトン』の件で、(d:id:ono_matope:20061016#1161023006)

しかし冷静に観るとこれ最後、怖くない?この流れだと、『お母さんは自分の子供(犬)を持ってしまった娘を棄てて、他所の犬を自分の子供にしました。めでたしめでたし。』に見えなくもないんだけど…。『ミトン』ってそういう映画?
追記:え、普通にそういう意味なの?うわ、ミトン怖ええ…!

と書いたところid:nanariさんに

現実と虚構の間を行き交うほどに犬をほしがっている娘を見て、不憫に思ったお母さんが、娘のために犬をもらってくるというのが、「普通」の意味内容だと思ったのですが。

とツッコミを受けてしまった。ちょっと「普通」の意味するところが分からなくなってしまったんですが、「普通にそういう話だったの?怖!」というのは失言だったかもです。『ミトン』の感想を漁っていて、『ちょっと怖い』という感想が幾つかあったので、『一般的にもそういう受容のされ方はされているのか』と思い、一般論にまで拡張してしまいましたが、そういった意見の少なさを見るとそれほど『普通の意見』でもなかったっぽいですね。
とはいえ、自分が『怖いな』と思ったのは確かなので、「普通」でないならなおさら、ちょっと論を補してみたいと思います。
(追記:正直、自分でもどちらに解釈して良いのか迷っていて、その辺を整理するために書いてるところもあるため、話が進むにつれて混乱していますが。)


とりあえず、コンテキスト用にもう一度貼っておきますね。



俺は『ミトン』を、犬と人形とコミュニケーションの黙示録であり、最終的に絶望的な着地をみせるところも(、それが希望なのか絶望なのかが判然としないところも)含めて、すごく『イノセンス』に近い映画だと受け止めました。*1ちょっとそこら辺を詳しく書いてみたいと思います。この映画を観て以降俺が感じている全ての疑問は、この次の点の解釈に収束します。


『母親は誰のために子犬を貰ったのか?』
犬を欲しがるあまりちょっと譫妄入っちゃった娘のため?それとも、自分の『犬』である娘を失ってしまった自分のため?


まず注目したいのは、この映画に出てくる犬(手袋含む)の数は、人間の数と同じだという事。この世界で、犬を飼っていないのは少女とその母親だけだ。画面に出てこないだけで、犬を飼っていない人もいるだろうって?だけど、そういった人たちはこの映画からはあらかじめ排除されてる。(なんかポケモンみたいな世界ですね)
「イノセンス」METHODS押井守演出ノート』の中で押井守は、『本当に孤独を知っている人間は、(中略)、イヌを必要とするのです』と語っている。その言を待つまでもなく、『イノセンス』は確かにそういう映画だった。しかるに、この『ミトン』の『犬社会』の人々は、とても孤独なのではなかろうかという疑問が湧く。それが証拠に『ミトン』では、人-犬という、完結した、閉じられたコミュニケーションしか描かれていない。そしてそれはまるで、『現代人の数と携帯電話の数が同じ』ように。


一方、この映画で唯一試みられる人と人の関係、すなわち少女と母親のコミュニケーションは至って不全だ。それはこの映画のファーストショットが、氷に閉ざされたアパルトマンの窓(から外を覗き見る少女)である事でも表現されている。母親は…典型的なダメ母ですね。基本的に彼女は自分の娘と視線を合わせず、自分の世界にしか興味がない。(彼女が自ら本を置くのは、物語の最後、娘の変化に直面してからだ)
少女が犬を欲しがった理由が垣間見える。


本来であれば、この前提で始まる物語で『回復』されなければならないのは、少女と母親のコミュニケーションだ。だが、果てしてそれはなされたのだろうか。その解釈は、冒頭で述べた、母の行動の解釈に掛かっている。母が娘の『ミトン』を目撃してから終幕までの母の行動。実際、俺にはコレが読めないんですよ。

Case A:ハッピーエンド

母は、ミトンの手袋を犬だと思い込むほどの娘の犬ほしさを理解し、また、己の娘への無関心を反省し、本物の子犬を娘に与える事にした。

Case B:ディストピアエンド

母は、ミトンの手袋を自分の『犬』としてしまった(気が違ってしまった→自分の世界から出て行ってしまった)自分の娘から逃げ、自分のための、娘の代替としての、新たな犬をゲットする事にした。



う〜ん、いや、本当に判んないんですよね。母親が犬を貰いにいく時も、女の子の家を一瞬通り過ぎるように見えるし(つまり、家から出てきたのは逃避が目的だったように見える(それでは階段を上る説明がつかないんだけど))、犬をもらう時の身振りも「その犬を」「わたしにください」に見えるし(これも別にアレだけど)、母親が子犬を抱きかかえた時の

二段階に強調されるこの、人-犬の完結した関係の構図は、

この構図を明らかに反復している、つまり『自分の犬、ゲットだぜ』の構図であろうし、これで、全ての個人が犬を手に入れました、めでたしめでたしの物語としてすごく収まりが良いしで、どうにも俺にはケースB、関係性の閉じゆく孤独な現代社会の黙示に見えて仕方がないんですよね。冒頭で示された親子の関係は遂に『回復』されず、代替としての犬を提示して終了する。人-人のコミュニケーションは否定され、全てが個に落ちてゆく…。


そんな絶望的な結末を幸せなムードで描いてしまう、つまり、そういった社会をにべもなく肯定してしまうところが、俺がこの映画に感じた底知れなさの理由です。


う〜ん、自分で言っておいて無理やりじゃねーかともはっきりいって思うんですが、そうとしか思えない自分もいて。ラストの母親の表情が純真なので、健全な解決が図られたように見えたり、でも逆にそれがブラックに見えたり…。
こうなると観客として(YouTubeの、だけどね!)凄く気になるのが、監督の考え。俺は、監督が意図してこのディスコミュニケーションのテーマを映画の中に隠蔽したのだと思えて仕方がない(そう思いたい)のだけど、それを知るためには、結局カチャーノフを知るしかないですね。
とりあえず来週短編集(asin:B00016OYLO)とチェブラーシカ(asin:B0000635TX)を借りてこようと思います。あー…、そっか、チェブラーシカかぁ。『怖い』監督じゃなさそうだなあ。今回は誤読かね(ここまで書いておいて!)w。


ミトン [DVD]イノセンス スタンダード版 [DVD]「イノセンス」METHODS押井守演出ノート


追記:
こちらhttp://www.charapit.com/wd/06/0610_2.htmで言及して頂いたのですが、とても面白い内容です。

この母親は最後まで娘の気持ちを理解できていないんですね。理解できないから、犬を貰いに行ったんですよ。

この物語って、理解し合えなかった母と娘が、最後には理解し合えてハッピーエンドになるのではなくて、最後まで理解し合えないにも関わらずハッピーエンドを迎えるというところがすごいと思うんですよね。もしこの物語に何かテーマのようなものがあるんだとしたら、人と人って、そんなに簡単に分かり合えたりなんてしないけど、それでも折り合いをつけて仲良く暮らすことは、できなくはないよねってことを言っているような気がしたのでした。

『素直説』、『怖い説』でもなく、全く新たな『それでも地球は廻ってゆくよ説』といったところですね。カッコいい!。結局このあたりが一番正解に近い気もします。

*1:イノセンス的文脈を無理に適用しようとしてる気が自分でもしなくはないけど